日本の
「相対的貧困率」が2006年には15.7%に達し、1997年以降最高だったことが判明した。「相対的貧困率」とは「年収が全国民の年収の中央値(平均値ではない!)の半分に満たない国民の割合」だという。従って、そもそもの経済力が違う他の国と比較するのは無意味だが、日本の数値を時系列的に見比べて悪化してきているということは言えるだろう。二極化が進み、ますます経済格差が広がっているのだ。
ウチはどうだろう?夫婦の所得から税金や社会保険料を差し引いた「可処分所得」を、大学在学中の末っ子も含めた3人世帯の額として考えれば、りっぱに「貧困層」の仲間入りをしているのではないだろうか...。
ただ、田舎で暮らしている分には「貧しい」という実感はない。ある程度の野菜は妻が作っているし、日用品以外はあまり物を買わない。外出しても近場だし、車が必須で酒が飲めないんじゃ...と、外食もほとんどしない。会社勤めではないので服も気にしないし、付き合いに金がかかることもない。税金などの公的な出費を除けば、医療保険と生命保険、ガソリン代、酒とタバコ代くらいが大きなものではなかろうか...。
そりゃあ、お金がたくさんあるに越したことはない。築100年の古民家は屋根も直さなくちゃいけないし、夫婦で海外旅行にも行きたい。欲を言えばキリがない。でも、結構今の暮らし気に入ってるんだよね。家は歴史を感じるし、周りの自然は豊かだ。、町にも近いし、忙しくもあり、のんびりでもあり...。都会に住んで、たくさん儲けてたくさん使って、便利で楽しい暮らしを謳歌する、そんな暮らしには魅力を感じない。「貧困」に分類されても別に結構...。
でも、子どもたちには、やはり貧しい暮らしに映るようだ。東京で大学に通う息子が、妻に言ったそうだ。「自分はそんな貧しい暮らしはしない」と...。2年前この家を購入したときから、「なんでこんな所に...」(もっと便利な所を買えばいいのに)と不満を言っていた。もっとも、近隣の人からさえ「なぜこんな山の中に...」と言われ続けてきたのだが...。
先日の真っ昼間、茶の間の窓の向こうに何かガサゴソ動く音。石垣の上に黒い物が見えたのでクマかと思ったら、なんと
カモシカ!だった。特別天然記念物を2~3mの目の前で見られて大感激!その話を息子にしたら「どんだけ田舎だよ」と一蹴されてしまった。彼に今の私の価値観を理解してもらうには、長い年月がかかりそうである。
最後に短歌を一つ。妻との合作である。
息子には 貧乏にしか 見えぬらし
田舎暮らしを 我は楽しむ
2学期の中間テストが近づいてきた。中学によってはもう終わってしまった所もあるが、大半は10月の頭に行われるようだ。
最近、テスト前になるとその対策をしてほしいという要望が増えてきた。親からの場合もあるし、生徒本人から言ってくる場合もある。
ウチの塾はもともと特別なテスト対策はしていない。理由は2つ。
1つ目は、結論から言えば
「それくらい自分でやれ」ということ。3年の総合テスト以外は範囲が決まっている。学校で配布されるワークからそのまま出題されることも多い。その程度のテストに向けての勉強は、塾に頼らなくてもできるはずだ。数・理・社は教科書をもう一度読み直し、ワークを繰り返しやっておけば十分だろう。英語は教科書の丸暗記と、同じく教科書の文の和文英訳。国語は文法と漢字の復習くらいなものだ。家での学習で対応可能だし、自習でできるくらいでないと困る。もちろん、今挙げた勉強法自体がわからないという子にはそれを教えるが、あくまでも自己管理して自学で対応するのが基本だと考えている。
2つ目は
「やっても長期的に損だから」である。テストの度に付け焼き刃で対応しても、たとえその時はできても、テストが終われば忘れてしまうことが多い。積み重ねが伴わない学力ほど脆いものはない。もう一度時間をかけて自力をつけ直しても、できるようになった頃に次のテストが近づき、またその場凌ぎの対策の繰り返し...。1年経ってみたら、結局ほとんど実力がついていなかったという結果になりかねない。これほど虚しいことはないだろう。塾では高校入試本番、あるいは総合テストに向けた長期的な展望で指導をしている。定期テストの度にそのペースを崩すわけにはいかないのだ。
敢えてテスト対策をしない理由は、
「逞しい学力」を培うためということに集約してもいい。範囲が決まっている定期テストは、基礎さえしっかりしているなら、その気になって集中して勉強すれば簡単に点は上がる。だから、基礎が弱い子にはそこを補強してやる。勉強の仕方がわからない子にはアドバイスを与える。塾がしてやれるのはそこまでだ。いや、そこまででとどめるべきである。いつまでも塾に頼らないとやって行けない
、「わからない」→「教えて」という図式が染み着いた生徒を増やしてはならないのだ。
一夜漬けでも何とかなる定期テストの点は、いくら高くても私はあてにしない。そこで一喜一憂するより、揺るぎない勉強法を確立すべきである。
「わからなかったら教えてもらう」「教えられたことしかできない」、そんな勉強をしてきた子は、総合テストになった途端、大幅に点を落とす。逆に、自分で考え、悩みながら答を導き出す体験を多く積んだ子は、そこで実力を発揮する。高校入試、大学入試を乗り切る、あるいは入学後や社会に出てからの人生を充実させるためには、そんな「逞しい学力」こそが不可欠なのである。塾ではその力こそ身につけさせたいと思っている。
とは言え、現実には親や生徒からの要望をむげに断るわけにも行かず、心ならずもわずかばかりの「テスト対策」を施すこともしばしば...。信念を貫けない現状をもどかしく感じることもあるが、一方で、私の指導方針を支持して付いてきてくれている家庭も決して少なくないことに勇気をもらっている...そんな毎日である。
2教室の夏期講習で猛烈に忙しく、お盆休みは千葉の実家に帰省し、ようやくいつもの生活のペースに戻ってきた。昨晩の信州は寒いくらいで、駆け足で秋が近づいているのを実感する。
夏期講習から新たに塾生になった中3も何人かいる。数学か苦手という子はもちろん、そこそこ得意な子にも必ず解かせてみるのが円錐の表面積を求める問題だ。中3でもこれに苦労する子が甚だ多いので...。
記されているのは、母線(頂点から底面への斜めの線)の長さと底面の半径だけ。ここから表面積を求めるには、まず展開図を考えなければならない。まずこれが満足に描けない子がいる。実際に紙に描いて、切って組み立ててみるととんでもない形になる。やっと正しい展開図が描けても、そこから先が大変だ。底面の円の面積が出せないのは論外として、側面にあたる扇形で固まってしまう子が多い。中心角がわからないとお手上げなのだ。
扇形単独の問題で、半径しかわかっていなければ面積は出せない。展開図の一部としての扇形だから出せるのだが、
「底面の円周=扇形の弧の長さ」という極めて重要な情報を見落としている。組み立てたときどことどこが重なるかを考えれば、決して難しいことではないのだが...。
で、仕方がないのでヒントを出してやる。すると今度は底面の円周が出せない。半径×半径...とやっている時点でアウト!円周が出せないということは、
「そもそも円周率とは何か」がわかっていないのでは?と思って聞いてみる。ポカンとした顔をして答えられない子が多い。「3.14」と答える子もいるが、それは「円周率はいくつか」に対する答えであり、こちらが求めている定義にはなっていない。「率」である以上、割合であり比であるはずだ。
何の何に対する割合が3.14...なのかを答えられなければならない。
それには答えられないまま、やがて半径rから円周を出す「公式」を思い出す。
円周=2π(パイ)rに機械的に当てはめて計算する。結局「円周率とは何か」は明確にならないまま円周の長さが出てしまう。何だかわからないけど答が出ればいいのか?...収まらない私はさらに聞く。「小学校のときはどう教わった?」...「直径×3.14..」...。ならばそうやって計算せよ!半径×2で直径を出し、それにπを掛けて円周を出せ。そもそも円周率とは
「直径に対する円周の割合」なのだから、2×π×rより2×r×πの方が中学生にはわかりやすいはずだ。2πrの順番になっているのはπは3.14...の代わりであり、変数であるrの方を後に書くという文字式の決まりのためだと考えればよい。なお、「中学生には」と断ったのは、高校で弧度法を学習すれば2πrの順もそれなりの意味を持って理解できるからである。
扇形の話であった。ともかくも扇形の弧の長さがわかった。それでもできない。ここでまた一つの公式を思い出す生徒がいる。
扇形の面積=半径×弧の長さ×1/2。...なぜその式で面積が出るのか?と尋ねても答えられない。おまけにうろ覚えなので1/2を忘れて間違った答えを出す。...
そんな理解度でかっこつけて公式なんか使うな!扇形は円の一部であるということから考えれば、一つ一つ納得しながら正しい答えを導き出せるはずだ。まず扇形を含む円を描かせる。扇形の半径から円周を求め、弧の長さと円周の割合、すなわち扇形と円の割合を出す。円のどれだけをを占めているかがわかれば、円の面積を計算してその割合を掛ければおしまい。弧の長さと円周の割合がわかった後にわざわざ中心角を出そうとする生徒も多いが、そんな無駄は不要である。ここまでがスラスラできるようになれば、先に挙げた扇形の面積の公式を使ってもかまわない。自分で導き出せるようにしてから使わせればベストであろう。
とにかく、根本的な意味や原理を理解しないまま、公式や公式的なものを闇雲に覚えて当てはめるだけという勉強は、特に中学生までは絶対に避けるべきである。
楽に手っ取り早く答えを出すより、時間をかけてでも培わなければならないものがあると確信している。
朝日新聞の「この人、その言葉」という連載で柳田国男が採り上げられていた。私は大学で民俗学を専攻したので柳田の著書もそれなりに読んでいるが、この言葉は初めて目にする。敗戦後、日本をどうして行けばよいのかについて語った際のものだという。
「小学校の下級生から判断力をみがいてやることが大切だ。
ごく機械的なことから始めていい。」
戦争に至った教訓から
、「民衆に疑問を持たせ、賢い判断力を養成する」教育を行って付和雷同型の日本人体質を変える必要を説いている。意見や判断を求められても、西洋の児童に比べ、、人が何と言うかばかりを見回している児童が多いというのだ。昭和24年の提言だが、残念ながらその傾向は今に至るまで改善されていないように思われる。むしろ重症になっているのかも知れない。子どもたちばかりか大人にも、自分で判断できない、個人の考えを持てない日本人が増えている気がする。
新しく塾に入ろうとする子が体験学習に来る。「どこでも好きな席に座って」と告げるのだが、なかなか決断がつかなくて机の間をウロウロする子がいる。ボーッと立っているだけで次の指示を待っている子もいる。あるいは、「どれからやってみる?数学?英語?」と問いかけても「うーん...」と言ったまま決められない。仕方がないのでこちらで決めてやるとホッとして素直に従う...。とにかく自分で決めることに慣れていないのだ。
自分で決められず指示を待つ状態を続けていると、自分の考えにどんどん自信が持てなくなってくる。だからますます自分で決められない、という悪循環だ。解答書と少し違うだけで平気で自分の答えに×を付ける。(4a+5)/2でも2a+5/2でも、どちらも正解なのに...。別解がいくつも考えられる場合もあるし、解答書が間違っている場合だってある。
同じコラムの中で、薩摩藩の郷中教育について触れられている。同藩には
「詮議(せんぎ)」と呼ばれる、児童の判断力を鍛える教育法があったという。たとえば
「殿様の用事で急ぐ場合、早駕籠(はやかご)でも間に合わぬときはどうするか」を子どもに答えさせたそうだ。仮定の質問に答え、対処法を考える訓練を普段からしていたことで、幕末から明治維新にかけての激動期、薩摩藩士は判断を誤らず活躍できたのであろう。知識だけではなく、実践的な問題解決力
を培うことに成功していたのである。
まずは柳田の提案するように、早い時期から「どちらが好きか」「どれが正しいか」など簡単な問いかけを多くするべきだろう。
「どう思うか」「どう考えるか」、さらに
「なぜそう判断するのか?」まで発展させていけば、自分で考える力はどんどん高まって行くはずだ。どんな世になっても正しい判断を下せる力を養うことは、教育の大きな目的の一つである。
「みかんが24個あります。2人で同じ数ずつ分けると、1人何個になりますか?」
小学校の算数です。もちろん答えは24÷2で12個ですね。では、なぜこの式で答が出るのか説明してください。大切なのは「÷2」という作業の意味です。
問題文中のどこに「÷2」の根拠があるのか、その部分に線を引いてみましょう。...「2人で」だけに線を引いた人、残念ながら×です。次の
「同じ数ずつ」があって初めて「÷2」という式が導き出されるのです。たとえば次のような問題ならどうでしょう。
「24個のみかんを姉と妹で分けます。姉が妹より4個多くなるようにすると、それぞれ何個ずつになるでしょう?」
これも先ほどと同じように、いきなり24÷2で始める子が少なくありません。中学生でもほとんどの子がそうします。で、12を出して、姉は4個多いので12+4=16→姉16個、妹12個。...ここで「あれ?」と気がつけばまだいい方で、2人合わせると28個になる矛盾など全く無視して解答を終える子が多いのです。
わり算は同じ大きさに分けるときしか使えません。2人の個数が異なるのに「÷2」で始めるのは全く意味がないのに、「分ける」というだけで反射的に24÷2にしてしまう...。正しい解き方は、
24-4=20、20÷2=10、10+4=14→ 姉14個、妹10個ですね。まず姉の方が多い4個を全体から引いてしまう。これで同じ大きさが2つ(妹分×2)になるので、ここで初めてわり算ができるわけです。20÷2の10個は妹の個数、それに4を足した14個が姉ですね。もちろん24に4を足して28にして、これを2で割っても構いません。この場合は先に姉の14個が出ます。いずれにしろ、
わり算が使えるように同じ大きさを2つ作り出す(想定する)ことがポイントになるわけです。
方程式を知っている生徒なら、こんなことは考えず機械的に解いてしまうかも知れません。その方が高度な解き方だと思う人もいるでしょう。しかし、方程式でも結局は同じ仕組みを使っているのです。そして、実は方程式だと式さえ立ってしまえばあとは作業になってしまい、「なぜ?」は等閑になりがちなのです。ですから塾では、方程式を知っている子にも、できるだけそれを使わないやり方で解かせます。
式や計算の意味を一つ一つ理解すること、解法の本質をつかむことを意識させるために、中学生の指導に算数的な考え方を採り入れることは極めて有効ではないかと考えています。